西京子の備忘録

朝ご飯の内容から夕ご飯の内容まで、徒然なるままに

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近世朝廷左大臣一覧表

近世朝廷の左大臣一覧表を作ってみました。
太政大臣が則闕之官なので、律令官制の長は、左大臣となることが多いです。
近世では、摂関待ちだったり、摂関兼任だったりします。

近衞信尹公           慶長10/07/24辞
鷹司信房公   慶長11/11/10任 慶長13/12/26辞
九条忠栄公   慶長17/../..任 慶長19/01/11辞
鷹司信尚公   慶長19/01/11任 元和06/01/13辞
近衞信尋公   元和06/01/13任 寛永06/07/01辞
一条兼遐公   寛永06/09/11任 寛永09/12/24辞
花山院定熙公  寛永09/12/24任 寛永09/12/28辞
二条康道公   寛永09/12/28任 寛永14/12/24辞
鷹司教平公   寛永17/03/21任 寛永18/12/01辞
九条道房公   寛永19/01/19任 正保04/01/10辞
近衞尚嗣公   正保04/07/03任 慶安05/08/03辞
二条光平公   慶安05/09/15任 明暦04/04/27辞
三条実秀公   万治03/01/13任 万治04/04/01辞
花山院定好公  万治04/05/24任 寛文03/01/12辞
鷹司房輔公   寛文03/01/12任 寛文07/22/18辞
西園寺実晴公  寛文07/04/08任 寛文08/05/27辞
徳大寺公信公  寛文08/09/01任 寛文09/12/12辞
大炊御門経孝公 寛文10/04/07任 寛文11/05/04辞
九条兼晴公   寛文11/05/07任 延宝05/11/12辞
近衞基熙公   延宝05/12/08任 元禄03/12/26辞
鷹司兼熙公   元禄03/12/26任 元禄17/01/10辞
大炊御門経光公 元禄17/01/10任 元禄17/01/11辞
近衞家熙公   元禄17/01/11任 宝永05/01/11辞
九条輔実公   宝永05/01/21任 正徳05/03/11辞
三条実治公   正徳05/03/12任 正徳05/08/12辞
二条綱平公   正徳05/08/12任 享保07/05/03辞
近衞家久公   享保07/05/03任 享保11/09/15辞
二条吉忠公   享保11/09/15任 元文02/08/03辞
一条兼香公   元文02/11/07任 延享02/02/13辞
西園寺致季公  延享02/02/29任 延享02/03/22辞
一条道香公   延享02/03/23任 延享05/12/12辞
醍醐冬熙公   延享05/12/27任 寛延02/02/02辞
近衞内前公   寛延02/02/08任 宝暦09/11/26辞
九条尚実公   宝暦09/11/26任 安永07/12/10辞
鷹司輔平公   安永07/12/10任 天明07/05/26辞
一条輝良公   天明07/05/26任 寛政03/11/28辞
鷹司政熙公   寛政03/11/28任 寛政08/04/24辞
二条治孝公   寛政08/04/24任 文化11/04/02辞
一条忠良公   文化11/04/02任 文化12/01/04辞
近衞基前公   文化12/01/04任 文政03/04/18辞
鷹司政通公   文政03/06/01任 文政07/01/05辞
二条斉信公   文政07/01/05任 弘化04/04/26辞
九条尚忠公   弘化04/06/15任 安政04/01/04辞
近衞忠熙公   安政04/01/04任 安政06/03/28辞
一条忠香公   安政06/03/28任 文久03/11/07辞
二条斉敬公   文久03/12/23任 慶応03/09/27辞
近衞忠房公   慶応03/09/27任 慶応03/11/30辞
九条道孝公   慶応03/11/30任 明治02/07/08廃

改元の年はその事をを考慮に入れていない場合があります。
また左大臣に任じられる際も、単に任や転任など、幾つか種類がありますが、任に統一しました。

五摂家が満遍なくと、今出川、久我、広幡を除く九清華から任じられています。
しかし、清華出身の場合は、六十、七十になってやっと任じられて、一日から数ヶ月で辞めなければなりません。
可哀想です。
(まあ、殆どの公家がなれないんですから、なれるだけ幸せですけど)

摂関と違って再任ということがありません。
なるなら時間を置いて前左大臣から太政大臣へ、ということになります。

やっと近世朝廷っぽい内容のものが出来ました(苦笑)
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Comment

 

日本の宮廷は本当に不思議なシステムですね。外国なら摂政や関白(皇帝代理?宰相?)という役職は皇族以外絶対なれない役職ですよね。臣下が摂関に就任した時点でフランク王国のように王朝交代が当然なのに、日本はそうはならないのですね。日本宮廷は神聖ローマ帝国とも全く違う独特の伝統慣習があります。五摂家には摂政殿下なり関白殿下なりの敬称が付きますから、外国人が見たら日本には神聖ローマ帝国のように大諸侯が交代で帝位に就いているか、それとも選挙王政のような印象を与えてしまうと思います。豊臣関白家も空前絶後ですね。農民出身の殿下、即ち外国からみたら准皇族待遇ですよね。臣下が准皇族待遇で殿下の称号を世襲できるというのも世界広しといえども日本だけですね。五摂家は皇帝の代理として国政を摂行できるということですから、准(副)皇帝であって神聖ローマ帝国の選帝侯とは意味合いが違いますね。日本と似ているのは強いて挙げればネパールぐらいですね。幕末の欧州列強は日本の宮廷制度に面食らったと思います。天皇(皇帝)・摂政(又は関白)・将軍(最高軍司令官)の誰が実権をもっているのか?全く解らなかったでしょうね。しかしロシア帝国でもそうなので、皇帝が大元帥を兼摂する必要はないようで、臣下が大元帥に就任してもよいようですね。WWI末期にロシアのニコライ2世が伯父のニコライ大公を解任して皇帝自ら大元帥に就任して結局ロシアの敗戦責任を被ってしまったのです。そしてWWIIで昭和天皇は日本の憲法上皇帝が大元帥を兼任せざる負えないシステムだったため、ニコライ2世のように敗戦責任を背負ってしまったのは不幸でした。明治の元勲は徳川将軍の再来を恐れて天皇兼大元帥制度を作った時、日本が外国との戦争で敗戦に至った場合にまで思いが及ばなかったようですね。世襲君主制度を維持するためには君主に政治責任が一切及ばないようなバリアーを幾つも作っておくことが大事であると思います。そういう意味では明治以前の日本宮廷の制度はよくできていたなと感心します。
  • posted by ツシマ 
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  • 2008.07/20 23:55分 
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敬称 

ツシマ様

三公が宰相なので、摂関は「皇帝代理」ですね。摂政の方が関白よりも上とされているので、その感が強いと思います。摂関の殿下は流例によるもので、この「殿下」は今で言う殿下と閣下の中間に位置するように思います。欧米でも臣下にSerene Highness等の敬称が付与されることもありますが、ある意味世襲とはいえこれに近いようにも思います。以上のことは全部感覚論にすぎませんが(苦笑)また、本朝には准后の制度がありますので、准皇族というとこちらが先に思い浮かびます。

幕末の在日在外問わず、外国人の日本に関する文章を読んでいると(と言っても邦訳ですが)、対日交渉に絡んで朝幕関係に関する記述を多く見かけます。官位についてもなかなかの検証を加えており、外国人の興味対象を伺わせます。(純粋に日本に対する興味の場合とレッツ植民地化な場合があるように感じています)

成る程、大元帥に臣下(皇族を含む)を任じるのは妙案ですね。思いもよりませんでした。陛下が任じられるのですから、何の問題もありませんね。
  • posted by 西京子 
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  • 2008.08/01 14:23分 
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コメントありがとうございます。准三后は臣下に皇后、皇太后、太皇太后(退位した皇帝の皇后?)?に等しい待遇を与えるということですね。ということは臣下でも陛下の称号を授与されるということなのでしょうか?。そこらへんがよくわかりません。たしか足利義満が明国皇帝に日本国准三后の肩書で国書を送ったと記憶しています。井沢元彦氏の著作に日本国王になろうとした将軍というのがあった気がしています。何かセンセーションな響きがしますが、日本天皇はあくまでも「日いづる国の皇帝」で、チャイナ皇帝と対等であることを宣言しているわけです。従って足利将軍がチャイナから勝手に皇帝より格下の日本「国王」の称号を授与されたからといって別にどうということはないのではと思うのですが。英王室の本家であるハノーバー家がドイツ帝国ではブラウンシュバイク公であり、連合王国ではカンバーランド公であるということと本質的な違いがあるのか疑問です。先日西京子様に教示していただきましたように、欧州ではウェリントン公爵家のように何ヶ国もの爵位を伝世している家はめずらしくないようですから。足利家は日本と明国の二ヶ国の爵位を所有しているだけの話?ですかね。問題は義満が国王・准三后からさらに日本皇帝になろうとしていたのかどうかというところだと思います。チャイナや欧州の宮廷ではでは准后に類する爵位?はあるのでしょうか?

二重 

ツシマ様

日本において敬称の制度は、西洋のように異常な程の発達を遂げませんでした。そのため、明治以前の用法は、現在の用法、西洋の敬称と対応したものと、単純に比較出来ないものです。

足利義満の日本国王の称号ですが、日明貿易の方便のためのものなら、特に言うことはないかもしれません。西洋世界は、中原の諸侯が統一されなかった状態に近く、各地の国王は戦国諸侯、貴族は武将や遊説家に近い面もあり、同一の世界観を持っています。故に、そのようなことが可能となっているのではないでしょうか。
  • posted by 西京子 
  • URL 
  • 2008.08/17 00:13分 
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義満の件 

義満公が日本国王となろうとした、という話のくだりでは日本国王臣源道義としての冊封がどうしてもクローズアップされますが、どちらかと言えば、義嗣の元服などに関連して治天の君として云々の方が大事ではないでしょうか。

ところで、明治時代は三后も敬称は陛下ではなく殿下だったように思います。
  • posted by dzlfox 
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  • 2008.08/18 15:52分 
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治天と国王 

dzlfox様

またしても遅れてすいません・・・鉄拳お願いします!(オイ)

義満公がどのような考えを持っていたかは、現在のところ状況証拠しかないので、なかなか難しいところです。(まあ、薨去後の朝廷の対応は・・・)当時の認識としては、「治天の君」の方が遥かに重要であったであったのは確かです。

陛下の敬称の範囲が法制化されたのは、明治二十二年の旧皇室典範。ということは、やっぱりMaje・・・ですよね?
  • posted by 西京子 
  • URL 
  • 2008.11/06 12:53分 
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神聖ローマ帝国では皇帝の勅許なしに加盟諸侯が帝国内で国王を自称することは許されませんでした。ということは天皇(皇帝)の勅許なしに明国から日本国王号を授与された義満公の行為は反逆行為?なのでしょうかね?。悩んでいます。

王号 

ツシマ様

神聖ローマ帝国と本朝の構造は異次元のものなので、前者でそうであったから、ということは言えないと思います。
本朝でも百済王氏との関係など、一時的に同じような方向での発達の可能性はあり得たでしょうが、結局そうはなりませんでした。
また、実際には、義満公が日本国王に封じられたからといって、朝廷から(表面上は)激しい反発があったわけではありません。
ということは!?
  • posted by 西京子 
  • URL 
  • 2008.11/17 01:34分 
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【左大臣】について

左大臣左大臣(さだいじん、ひだりのおおいもうちぎみ、ひだりのおとど)は、朝廷組織の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。「一上(いちのかみ)」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べ、台閣の首座に等しか

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    ・今年も早いもので十二月になりました。皆さま、ご多忙の時期とは思いますが、無理をなさりませんよう。
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